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佐渡の海 伊豆の小島 尾張名護屋の味噌 |
>Topに戻る 1.波濤の果てへ 佐渡島と聞くと、江戸時代の流刑地で風雪吹き荒び、波濤寄せる絶海の孤島と云うのが長い間のイメージであった。しかし、佐渡には豊かな自然と水産資源があり、米も多く採れるので生活の水準は上々であるらしい。そんな佐渡島に5月の下旬頃、渡った。 新潟の港からジェットフォイルと云う、新型の高速艇に乗り日本海に出た。新潟の港には見慣れないロシア語の書かれた船が多く見られ、太平洋側とは違う文化圏があることを知った。 ジェットフォイルは水中翼船の最新型で時速40ノット、メートルにすると80キロメートル毎時と云う驚異的なスピードで日本海の荒海(イメージは、やはり荒海である)を突き進む。船というより航空機に近く、船旅というのんびりとした優雅さはない。新潟から佐渡までは1時間程を要し、同航路のフェリーは2時間が掛かる。船賃は当然の如く、倍であった。 途中、遙かな沖合に海底油田のプラットホームを望む事が出来る。日本国内で採掘出来る希少な石油資源だが、何処の誰がどの様に使って居るのか疑問が湧く、最近の流行である産地表示をして。一般に販売すると値段は幾らになるのだろうかと思うと少し滑稽である。新潟沖産「越の油(コシアブラ)」1リットル500円也、幾ら国内産の物が好きでもこの値段では買えないと思える。一方では輸入品は危ないだのと云っておきながら、この様な物は輸入で安い物でよいと云う都合のよい解釈が日本人の底辺にあると思う。現代人の矛盾を考えづにはいられない。 2.小佐渡越え この旅の目的は、佐渡の海でスキューバダイビングをするこにあり、東京の家から重い機材を遙々持参した。佐渡の港、両津港に到着するとダイビングサービスの人が迎えに来てくれていた。白いワゴン車に乗り、両津とは反対側にある港、小木に向かった。余談であるが、ダイビングサービスの使う車は全国的に見て、例外無く白のワゴン車と決まっている。ダイビングに使われる車は苦役を強いられるので損耗が激しく。長くて5年、短いと3年でクラッチが擦り切れ、底が抜けてしまい。廃車になってしまうのである。よって、この手の車は白塗りの安価な車が多くなるのであろう。 佐渡島は瓢箪を潰した様な形の島で窪んだ部分の新潟よりが両津であり、中佐渡と云われる。北側の塊を大佐渡、本州よりを小佐渡と呼ぶ、小木は小佐渡にあり、直江津からの航路の玄関であったが、両津の開港によりその使命は終わり、今は閑散な港である。 国道を走ること1時間強、車窓の景色は海岸線の切り立った岩々や山中の深い森林を写しながら小木の港の更に奥の外れの漁港に着いた。海の色は深い藍色をしており、底が無い様に見えた。そんな海に平底の小さな船(ダイビング用に改造した漁船)で漕ぎ出すのは少し心細い思いだった。船は防波堤を出て、岬の下に錨を落とした。天気は晴れてはいたが多少の風があった。 マウスピースを喰えて、佐渡の海に飛び込んだ。水温はかなり低く、19゜C程だった。背中に入った水が一気に体温を奪った。海底を目指し海中を進むと目の前が白くなっていく、水温計を見ると針は15゜Cを指している。水温と水中マスク内の温度差でマスク内が曇り視界を妨げている。 パイパーの壊れた自動車で土砂降りの雨の中を走っている様なもので、非常に危険な状態だ。何度もマスクの曇りを流しているうちに、海底に着いた。当たりを見回すと其処は、海底の小さな平地であった。岩の手前に薄っらと海藻の着いたお地蔵さんが寂しく立っていた。 背筋に寒気を感じた。余りにも非日常的な所にお地蔵様があり、違和感を感じずには居られなかった。 お地蔵様はコンクリートで作った物であると思えた。普通、道端に立っているお地蔵様より若干、大きく、高さ1500mm程度あった。これが小木名物「幸福地蔵」である。 幸福地蔵の廻り泳いでいるうちにフィンでお地蔵様の頭を蹴り廻って居た。コンクリート製とはいえ罰当たりな事をしてしまい悔やまれた。冷たい海水から出た時、海上は小雨が降っており、肌寒く。幸福地蔵の祟りではないかと思われた。 3.小木の盥船 漁港に戻り、濡れた身体を乾かし昼食を食べた。食休みの間、漁港を散策していると巨大な盥が波藻に揺れていた。それが佐渡名物「盥船」であった。現在、多くの物はプラスッチク製になってしまった様だが其処に浮かんでいたのは本物の木盥であった。早速、乗ってみた。大人が2人乗っても十分な大きさであるが可成り不安定な乗り物である。記憶の片隅にある漕ぎ方を模倣して櫂を漕ぐが思うよう進まない。こんな形の物を自在に操るには可成りの熟練が必要だと感心せずにはいられない。佐渡の歴史や文化の奥深さをこの様な物で感じるとは少し妙な気持ちがした。 Fin
伊豆の小島〜遥かなる小笠原〜 >Topに戻る 1.三宅島am4:00 幼少の頃の記憶にある島は、伊豆大島である。親戚の別荘が伊東に有ったので、よく家族で旅行に行ったの覚えている。その海の彼方に薄っらと見えた島影が大島である。あの島に行きたいとよくせがんでいたそうだ。東京から伊東までの国鉄(当時の呼称、現在はJRとなっている)の運賃が1000円しなかた時代に大島までの船賃が500円程掛かっていた。当時は乗り物の絵本でしか見たことのなかった水中翼船が就航していた。幼い子供にとっては非常に憧れる乗り物であったであろう。しかし、親は山育ちで船を苦手としていた。更にこの様な法外な料金を払ってまで子供を満足させる気は起きなかったであろうと思う。よって、大島は遥かに遠かったのである。現在、この航路が残っているのかは定かではない。 そんな幼年期から近年まで伊豆の島々へ行く機会を逃していたが、スキューバダイビングのライセンスを取得するのを機会に三宅島へ行くこととなった。三宅島には東京・日の出桟橋(現在は竹芝桟橋)から東海汽船「カメリヤ丸」に乗り一夜を掛けて渡島する。普通のダイビングサービス(以下DS)ならば同行して至れり尽くせりなのだろうが、この店は違っていた。一人寂しく船に乗せられた。 島に行くのも初めてなら、船旅をするのも初めてであったので、期待と不安の入り交じった幼い子供に戻った気分で船に乗った。船は三宅島に翌朝接岸する。到着は午前4:00。まだ、日も昇らな薄暗闇の岸壁に降り立った。誰も居なくなった岸壁に残され、来るんじゃなっかたと後悔の念が芽生え始めた時、暗がりから名前を呼ばれた。手に持った紙と私の顔を比べながら近づいてきた。東京のDSから依頼を受けた現地のDSの人間である。手に持った紙にはファックシミリで電送されて判別不能なくらいぼやけた私の顔写真であった。 2.溶岩学校 三宅島の雄山が十七年ぶりに噴火した。幸いにも溶岩の噴出は無いが多量の火山灰が島の一部に降り積もり、人々の生活に大きな被害を与えている。三宅の地を一度でも踏んだ人間としては心痛である。 十七年前の噴火では噴出した溶岩が町を襲い、中学校の校舎を襲った。溶岩は校舎を飲み込み海に達した。コンクリート造りの校舎の残骸を抱えたまま、冷えて固まった溶岩は赤茶けた巨大な岩と化し、今も其処にある。 溶岩に埋もれた人跡を見ると、自然の猛威の前では人間等は神妙にするしかないと感じた。 3.大島の波浮港 椿の花が咲く頃を過ぎ、夏も過ぎた九月、ついに大島に行く機会が巡って来た。横浜のヨットハーバーからクルーザーに乗り、大島近海でボートダイビングを楽しむと言う洒落たツアーだ。 ツアー当日の早朝、空模様を気にしながら横浜に向かった。ハーバーに着いた頃、雨がポッリポッリと落ち始めて来た。風も次第に強くなりこの先の行程が危ぶまれる中、クルーザーはハーバーを離岸した。東京湾に出る為に短い運河を進むクルーザーは風に吹かれて大きく揺れた。 このツアーは僅か15分足らずで終わった。低気圧の影響でこの先の航行は不可能と操船者が判断したのだ。大島行きは、また機会を逃してしまった。次の機会は一年程たった八月の盆休みの終わりに巡って来た。 竹芝桟橋から東海汽船で行く、普通のツアーとなった。今回は天候に恵まれて予定通りの行程であった。 大島での宿泊は波浮港近くに建つ、お洒落なペンションである。母屋の前には大きなプールがあり何時でも泳ぐ事が出来る。プールは湧き水で満たされており、そのまま飲めるほど澄んでいる。その為、水温は非常に低く西瓜が十分冷やせる程である。朝は顔を洗う代わりに一泳ぎすればシャッキと出来る。 夜はプールサイドでバーベキューが開かれ、花火をしたりして今日の出来事を友人達と語り合った。そんな時、波浮の港の方から和太鼓の響きに乗って軽快な音楽が流れて来た。波浮地区の盆踊りである。 普通、盆踊りで掛かる定番の曲は「炭坑節」と「オバQ音頭」である。 しかし、ここ波浮の盆踊りは少し変わっており。前記の曲に加えて、「ジェンカ」と「マイムマイム」が繰り返し掛かる。左記の曲は云わずと知れたフォークダンスの名曲である。 勿論、フォークダンスであるので手を繋いだり肩を組んだりして踊る。小学校時代に擦り込まれたフォークダンスのリズムは手を脚を勝手に動かす。大人も子供も一心不乱に踊る姿は、まるで集団催眠に掛かってしまった様である。 盛り上がっていた盆踊りも8時を過ぎると子供達は家路に着く、因みに8時以降は、大人の時間である。更にテンションは上がり「ジェンカ」を踊る若人達。こうして島での夏は更けて行った。 4.八丈島波高し 八丈島は三宅島の更に遠方にあり、朝方、三宅島を発った船は黒潮を突き進み八丈島を目指す。潮の流れは容赦なく船体に当たり、船を揺する。揺れは想像以上に大きく、久しぶりに船酔いを経験した。 八丈島は東京から約300Km離れた洋上に浮かぶ島である。江戸期には遠島の地として恐れられた島であったが、今は気楽に南国気分が味わえる身近な観光地である。 荒波寄せる岸壁を覗くと銀鱗を輝かせて泳ぐ、島アジの大群がいる。サビキで釣ると僅か数分でバケツが一杯になる程である。しかし、足の速い島アジは余り食卓には向かない。そんな豊富な海産資源を有効に利用しようと考えられた保存法方がクサヤであり、島の特産品である。土産に買って帰ったが家の中で焼く勇気は無かった。 5.式根の海中温泉 数人の仲間と2泊2日(船中1泊)の旅に出た。夏前の空いた時期に式根島に渡った。大島・新島経由で行く式根島は東京に近く、気軽に行けるリゾートである。湘南の海とは比べ物にならない程、海は綺麗である。 伊豆の各島は富士火山帯の上に沿って作られている。よって当然温泉が必ず涌いている。式根島にも温泉が涌いているが湧き出ている場所が海岸線の近くなので温泉旅館の立地には向かなかった様だ。 温泉の源泉は熱いのでそのまま入る事が出来ない。海水で埋めて入る。しかし、満ち潮の時だと海水が多すぎてぬるすぎる様だ。今度行く時は時間を見計らっていい塩梅の時に入浴したいものだと思った。 6.遥かな父島母島 伊豆七島の遥か南、東京から1000Kmの彼方、太平洋の波濤の中に小笠原諸島が浮かぶ。船で28時間掛かり、今乗って来た船で帰らないのであれば、帰りの船は3日程待たなければ来ない。島を楽しむには1週程の行程が必要となる。昨今、飛行場建設の問題が話題になっているが飛行場建設開始前に一度訪ねて見たい。実現にはまだ時間が掛かると思うが、まだ見ぬ島々を想い楽しみを膨らませておきたい。 end >Topに戻る
尾張名護屋の味噌〜三河文化〜 1.西春日井群 年間雨量の3分の1が僅か2日で降った。2000年9月11日、東海地方を集中豪雨が襲った。小さな川の堤防は大量の雨水により浸食され、決壊した。溢れ出た水は郡部の町を覆った。 町の名は西枇杷島町。 庄内川に掛かる橋を渡ると市内を離れ、西春日井群に入る。名古屋の駅から西へ1つ目、枇杷島と云う小さな駅がある。僅かに市街を離れただけで、此処には市内の喧騒は無く、緩やかな時間が流れていた。 嘗て、縁合って此の地で二年間を過ごした。天災はそんな旧知の町を無惨な姿に変えた。置き去られた車が屋根だけを残し、哀れな鉄の塊と化し水に沈み、人々の生活の全てが泥濁の中に没した。町の多くが水没した。 豪雨は愛知県内の至る所に大きな被害を与えた。今後、復興にはかなりの時間と費用が必要となるなるだろう。政府の迅速な対応を切望する。 2.瀬戸の焼き物 名古屋の中心地から北東に20Km程離れた処に焼き物の町がある。陶磁器の代名詞としてその名を全国に知られている町である。 ひと昔前、露店などで一山いくらで売られていた焼き物を総称して「瀬戸物」と呼んでいた。しかし、本物の瀬戸焼は露店などで簡単に手に入る程、安い物ではなかった。 町の中には多くの窯元があり、本物の「瀬戸物」を生産していた。瀬戸の焼き物らししい手頃な物を探した。これより少し前、瀬戸に近い岐阜県多治見で「多治見焼」のぐい飲みを手に入れいたので、酒を嗜む者として酒飲に関わる物で揃えようと思い、お猪口を買った。鮮やかな色合いの焼き物だが値段は非常に手頃であった。以後、各地に行くと陶磁器や漆器・ガラス工芸品などを物色するにわか収集家となった。七つの趣味の一つである。 3.味噌は尾張の心 名古屋と云えば、味噌カツである。旨い、不味いは個人の味覚の違いであるので何とも云えないが、非常に珍しい味の料理である。 尾張名古屋の味噌は、味が濃く褐色をしている。味噌汁にすると色が薄まり赤くなるので赤味噌と云われる。此の赤味噌の様に名古屋には独特の文化がある。それは他から見ればおかしな風習だが此処では長い年月で育まれたしきたりである。名古屋で過ごしたのは2年間程であったが見聞きした事もない多くの習慣がまだまだ、あるのものだと思い感心した。 fin >Topに戻る |