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東京・荒川線散歩 東京・世田谷線散歩 越後の光り |
>Topに戻る 1.東京・荒川線散歩 桜の花咲く頃、小春日和の暖かな日、都電に乗りに出掛けた。 こんにち都内を走っている都電は一路線だけである。他の全ての路線は輸送手段の変革と合理化による時代の変化と云う荒波を受けて廃線となった。 都電は東京都の運営する路面電車の通称で、正式には都営荒川線と云う。路面電車とは云われてはいるが路上を走っている距離は、全体の僅か1割弱で残りは専用軌道を走っている。余り路面電車とは云えないが旧習の習わしでこう呼ぶようになっている。 線路は都(みやこ)の西北・早稲田の杜から東池袋・サンシャイン60の裏手を抜け、飛鳥山公園を迂回して三ノ輪橋へ至る。入り込んだ家々の軒先を掠めるように下町を巡る全長12.2Kmの線路、その短い線路の上をグリーンとクリームのツートンカラーの単騎の車輌が今日も行き交っている。昔はやや黄色み掛かったクリーム色であったと記憶している。 色こそ昔のものではないが今でも古く懐かしい車輌が走っている。 昭和24年(1949)に製造された6000形は、「これぞ、都電」と云われる独特のカーブした屋根、前照灯は丸目の一灯、床は油の染み込んだ板張りで懐かし匂いがする。 このレトロ都電は乗降ドアーの開閉を手動にて行う為、車掌が前後に一人づつ張り付いており、運転手を入れると3人必要となる。なんとも贅沢な電車である。 後方の扉を受け持つ年輩の車掌がよく通る声と流暢な舌技で停車場の案内を行う。こんな車内アナウンスも今は懐かしく、一つの無形文化を見聞きする様な感じがした。 扉を閉めて、安全を確認すると天上に張られた紐を引く、"チン、チン"と運転手側のベルが鳴る。子供の頃は都電とは呼ばずにチンチン電車と親しみを込めた呼び方をしていたが、今では恥ずかしくて呼べるものではない。 道行く人はレトロな外観に驚き指を指す。沿線の彼方此方では都電ファン(マニア)がカメラを構えてベストショットを狙っている。このレトロ都電は乗っても、見ても楽しいものである。 都電の停車場の近くには見所が多く、早稲田から一つ目の面影橋駅は神田川に近く、桜の咲く頃は絶好の花見所である。庚申塚駅のホームには小さな店があり、夏にはかき氷が美味しい。荒川遊園前駅には駄菓子屋があり、懐かしい駄菓子を売っている。 この日、飛鳥山で都電を降りた。飛鳥山公園の小高く盛り上がった山に登ると陽も高いうちから人々は所狭しと宴の座を広げ、酒池で溺れていた。桜の木は幼木の昔から此処に立ち陽気な人々を楽しませて来たのだろうと想像出来る。
東京・世田谷線散歩〜豪徳寺の招き猫児〜 >Topに戻る 2.東京・世田谷線散歩 世田谷線に乗った。下高井戸から三軒茶屋までの僅か5Kmの区間を2輌編成の電車がせわしなく行き来をしている。 古びた車輌は昔と変わらぬ姿で今も走っている。丸い2つの前照灯と僅かに突き出たバンパー(?)が緑の車体の色と相まって蛙の顔の様に見える。 ホームは低く、線路面から十数センチしかない。従って、電車の床とホームの段差はかなりある。数段の階段を登って車内に乗り込む、車内は木材を多く使っており、窓枠や床には歴史を重ねた風格がある。天上には扇風機が付いている。昔はこれで暑さを凌いだものであった。冷房付きの車輌などは新幹線か長距離特急だけしかなく、贅沢の極みであった。 終点の三軒茶屋駅は小洒落た駅に変わっている。低い町並みの中に一際そびえ立つ「キャロットタワー」の人参色と濃い緑の古びた電車のコントラストが時代の移り代わりを感じさせる。 下高井戸から乗り、三つ目の宮乃坂駅で下車した。駅の雨避け屋根は昔から変わらぬ木組みの柱と梁で出来ており、建築様式の見本の様に時代を超えてそこに建っている。 宮之坂駅の近くに豪徳寺と云う仏殿がある。此の寺には幕末の大老"井伊直弼(ナオスケ)"の墓碑があると聞き、一目見学しようと参道を歩き寺の山門を潜り中に入った。 寺の境内は広く、ソメイヨシノや枝垂れ桜が見事な花を付けていた。 また、此の寺には招き猫児伝説が伝えられている。 現代の世にも招き猫児は存在する。山門前の献花屋で飼われている猫は"招福猫児"と書かれた看板の前で愛らしいポーズを取って道行く人を誘っている。猫好きには堪らないであろうと思う。 さて、変化の早い東京である。古い電車の車輌や古い町並みを残していこうとする努力は、都会人の残り少ない良心と云えるかもしれない。 >Topに戻る |
>Topに戻る 1.三国峠 昔、まだ上越新幹線も通っていない昔のことである。上野から最終の特急で友人達とスキーに出掛けた。群馬県と新潟県の国ざかいにある長いトンネルを抜けると其処は雪国であった。横殴りに吹き荒ぶ雪嵐の中、列車は湯沢を過ぎ、六日町に着いた。 六日町の駅に降りた我々は、駅前の広場で宿から迎えの車を待った。その間も雪嵐は吹き荒れ、寒さと痛さに顔をしかめて耐えた。 あの頃は、毎年の様に豪雪に悩まされていた新潟であった。道路の両側には除雪された雪が人の丈よりも高く、壁を作っていた。今では懐かしい景色と云えるかもしれない。 六日町から石打スキー場近くの宿、五右衛門旅館に向かった。宿は、冬場のスキー客が泊まる為の民宿に毛が生えた程度の宿である。石打スキー場は古いスキー場なのでリフトの乗り継ぎが悪く、次のリフトまで横向きに階段登りをしなくてはならない。リフトはシングルで、今では考えられない程、遅い。お陰でリフト乗り場はいつも長蛇の列であった。昭和の時代は何処でも列を作ることが文化であったのかもしれない。 そんな、スキーも車で行けるようになると毎週の様に出掛けた。しかし、その頃の関越道は月夜野迄しか開通しておらず、新潟に抜けるには国道17号線で三国峠を越えなければならなかった。冬の三国峠は泣く子も黙る難所であった。猿ヶ京を過ぎると次第に雪深くなり、多くの車がチェーンを巻き始める。毎週の様に繰り返したチェーンの装着は否が応でも上手くなり、友人達と装着時間の短縮を競ったものだった。今では余り役に立たない技術である。 暗い夜道の長く険しい登り坂を慎重な運手で進むと三国トンネルに入る。トンネルの中は当然、雪は無い。チェーンがアスファルトを削り取り、その音が壁に反響して車内に届く。チェーンの痛みを気に掛けながら長いトンネルを走る。緩やかな坂を登り切った所が国ざかいである。そこから緩やかに下り坂になり、エンジンの音もやや軽やかになる。 長かった三国トンネルを抜けると其処は、純白の世界であった。色の着いた物は前を走る車のテールランプだけである。夜明けも近い山に音もなく雪が降り続く。 2.奥只見 冬の新潟で嬉しいのはスキー宿で食べる食事である。地元魚沼産の「コシヒカリ」の新米がここでは食べ放題なのだ。若さもあったがよくもあんなに食べたものだと自分の愚かさを笑った。お櫃のお代わりを2回、宿の女将さんも呆れていただろうと思う。 普段は片仮名で「コシヒカリ」と書いてあるが、偶に「越光」と書かれた物もある。愚かにもこれを見て地元産「エッコウ」と読んでしまい。笑われた記憶がある。漢字で書けば確かに「越し光り」である。”越後の光り”とは実に良い名前であると思う。 新潟は良い米が採れる為、良いお酒も多く作られている。幻の銘酒「越乃寒梅」を初め、多くの銘柄がある。その中でも私が好きな銘柄は「八海山」である。現在の東京の居酒屋では、1合800〜1000円とかなりの高級酒であるが、初めてこのお酒を飲んだ時はまだ銘柄も知らなかった。日本酒がこんなに味わい深い物だと教えてくれたお酒であった。 その八海山の山並みを過ぎると小出に着く。関越道の全線開通、関越トンネルの2車線開通と、東京からの距離が段々近く感じる様になり、もっと遠くに行きたいと思っていた。そんなとき友人に誘われてフライフィッシングを始めた。清流を求め山の奥の奥へ入り込んで行った。 小出のインターを降りて右の山に向かう。長い長い長いトンネルを30分位走り続けると奥只見の銀山平に至る。このまま此の道を進めば尾瀬の裏口や福島県の檜枝岐に至る。非常に走り堪えのある道である。 奥只見は豪雪地帯である。従って春までは此の銀山平に来ることは出来ない。冬の間は無人となる。その豪雪の名残を大事に取っておき、夏、真っ盛りに雪祭りを開くのである。この時ばかりは麓から大挙して人が繰り出し一年に一度、山は大変賑やかになる。この祭りが過ぎると山には秋が近づくのである。山の夏は短く、北側の斜面には雪渓が消えることなく次の冬を迎える。この万年雪は何時から其処にあったのだろう。そして、あと何年そこにあるのだろう。 >Topに戻る |