

| 地域選択 <<ホームに戻る
次のページ>>
海の道 東北釣行記 合掌の郷 能登路の果て 松島絶景 安芸の国 信州の夏 紺碧の追憶 東京散歩 越後の光り 佐渡の海 伊豆の小島 尾張名護屋の味噌 都内のポスト 法師温泉 能登の小さな郵便局 |
>Topに戻る 1 私が初めて四国に渡ったのは、昭和59年も暮れ様としている、師走の大晦日だった。岡山の駅で宇野線に乗り換え、岡山県海際の小さな港、宇野港に着いた。この頃はまだ、JRに分割される前で国鉄と称していた。その国鉄の運営する宇高連絡船のフェリーに乗り継ぎ、瀬戸内の波藻に霞む巨大な島を目指した。宇野から四国の玄関口である高松までは、約1時間の船旅である。人々は、故郷に帰る懐かしさか、暖かい船室に留まらず寒風の吹き付ける甲板の売店で売る、200円のうどんをすすっていた。茹でたうどんにつゆを掛けただけの素うどんであるが、乗客の大半の人には、故郷へ帰るという実感を与えてくれる物であった。私もこの時、初めて讃岐うどんを食し、懐かしさと暖かさに触れた様に思う。現在、四国には3本の巨大な橋が掛かっている。その内の1つ瀬戸大橋を列車で渡れば20分と掛からない内に対岸に着く。スピードが早くなると旅情が希薄になり、人々の想いも薄れていく。 次第に近づく山々に人々は、下船の準備を始めた。両手に土産の入った紙袋を抱えて下船口に並んだ。高松港に接岸し、扉が開くとみんな小走りに通路を進んだ。松山や高知に向かう列車が人々を待っていた。私は、急ぐ人達の後ろを松山行きの特急が待つホームに向かった。指定席と書かれた車両に乗り、席に着いた。この時の座席は、本州ではグリーン車として扱われる席であった。従ってこの列車にはグリーン車はない。指定席を使っているのは、私だけであった。誰もいない車両は、師走の喧騒とは別の時間の様だった。広々とした座席は、旅の疲れを癒すには申し分なく、暫しの睡眠に落ちた。この日は、旧知の友人宅に厄介になり、年越しにて酒を酌み交わした。やはりこの地方では、年越しにもうどんを食べる様であった。 明けて昭和60年元旦、未明に友人夫妻と共に地元の神社に詣でた。木々の多い小高い山に建つ神社は凛々しく廻りの空気は、冷たく締まっている様に感じた。友人宅に戻り、一寝入りしてから友人と車で松山に向かった。この頃、松山自動車道など影もなく、海沿いの国道を2時間掛けて松山に入った。やはり松山と聞くと道後温泉を見ずには帰れないものである。国鉄松山駅から路面電車に乗り、道後温泉に向かった。普通は、夏目漱石の小説の舞台となったという事で道後温泉を知ってるものだが、私の記憶では、テレビ漫画の「アパッチ野球軍」でその名を知り、後に漱石の小説を知ったのである。「アパッチ野球軍」の舞台は、正確には更に奥の奥道後であるが時間の都合で行くことは出来なかった。残念ながら今日でもまだ、行き着いてはいないのである。 道後と地名があるからには、道前と言う地名もある。ここにも温泉はあるが誰も訪れることはない。深い谷間に朽ち果て様としている。哀しい風景である。 道後温泉には、ランクがある。多くの人は、銭湯の様な湯に入る。観光客は、二階の湯に入る。私も例に漏れず、二階の湯に行った。大部屋で湯上がりにお茶と菓子(これも、料金の内だが)が振る舞われる。湯殿は風情のある良い建造物だと関心したが、廻りは、土産物屋が立ち並ぶ余り、湯冷めならぬ、興冷めしてしまい。少し哀れを感じる。これは、日本全国で言える事だが、いささか残念である。道後温泉駅から路面電車に乗り、松山城で下車。天守閣のある山頂を目指した。城内を散策して、小1時間位で松山駅に戻った。友人の運転する車で2時間、友人宅に本日も厄介を掛ける。次の日は、早々に帰り支度である。友人夫妻と高松行きの特急に乗り、帰路に着いた。途中、金比羅山に立ち寄り、旅の無事を祈願した。その後、小さな公園で葛の橋などを見て残りの時を過ごした。高松港での別れは感傷的であった。港を離れる船は、別れというものを具体的な形で表している。人の力では渡ることの出来ない海がそこにある。船が残す航跡は、陸と陸とを繋ぐ道の様だ。しかし、道は次第に波間に消える。帰る道が消えてゆく事で人は、別れを実感する。目に見えない道を想うことで人は、望郷 の念が強くなるのかもしれない。瀬戸内の海に大橋が掛かり、目に見える道が出来た事で”海の道”を想うことがなくなり、故郷が遠くなっていくのかもしれない。その後、一度だけ宇高連絡船に乗った。東京から愛媛県の新居浜まで8時間掛かった記憶がある。次に四国に行った時には、瀬戸大橋が完成していた。 2 瀬戸大橋完成の年、東京の友人と二人で旅に出た。友人の車で兵庫県・神戸港から淡路島に渡り、鳴門大橋を通り、阿波の国を経て、南国・土佐を目指した。土佐の名所・桂浜で坂本龍馬の銅像を拝み、四国の背骨を越えて讃岐の国に出た。四国の山々は、深く険しかった。友人には残念だが道後温泉・伊予の国には行けなかった。四国三国を駆け足で走り抜け、出来たばかりの瀬戸大橋を使って本州に戻った。 僅か30分程で橋を渡りきり、旅の目的は達成された。橋は巨大で珍しくもあったが、旅情と言うには虚しすぎる景色であった。友人と二人、東京までの長い道のりを言葉少なに過ごした。 3 明日、飛行機にて松山に行く、日帰りの出張である。スピードと言うものは、感情が希薄になり自分が今どこに居るのかすら解らなくなる。そんな時、駅でうどんを食す、味覚は感情を呼び戻してくれる。遠い昔、感じた懐かしさと暖かさが蘇るだろう。また、飛行機の小窓から”海の道”を探して見るのも良いかもしれない。 あれから旧知の友人には、会っていないが元気で居ることを願って、私の四国紀行を終える。 Fin >Topに戻る |
>Topに戻る 7月の終わりにお世話になっている先輩から電話が掛かって来た。8月の盆休みに釣りに行こうと言う、誘いの電話だ。私は、二つ返事で快諾した。私が趣味としている釣法は、フライと言う昆虫を模した毛針(疑似餌)に依る、フライフィッシングである。その日から毛針を巻き、釣行の準備を始めた。 1.東北の川(第1日目) 東京を11日夜9時に出発。翌12日夜明け間近、東北自動車道・古川ICを降りる。国道47号線を鳴子方面へ進む、江合川と出会う。荒雄川とも呼ばれる豊かな川だ。川の流れに沿い北羽前街道を新庄へと向かう。 この付近一帯は、栗駒国定公園といい、ここを源とする川は素晴らしいものが多い。13号線を右折し新庄市に入る、指首野川にぶつかる、別名土内川とも呼ばれる川であるこの川に沿って神室山を登る。静かな田園風景の中をゆっくりと車を走らせる。20分ほど行くと山道らしくなりまもなく車止めとなる。すでに6時を回り、日も高くなり気温もかなり上がってきた。少し仮眠をとってからよいよ釣行開始である。ウエーダーを履くと、中はとたんに汗が噴き出す。上半身は、虫避けの為、長袖のブルゾン。車止めから歩いて15分程の所に最初のポイントを見つけるが、しかし、ここではヒットなし。次のポイントまで、また、15分程度歩いた道から20mほど下降して入渓する。水温は15゚Cぐらいだろうか、ここらの渓相はあちらこちらから、沢の流れ込みあり。本流は、激しい流れだ。渓谷は、フライロッドを振るには少々狭いが日陰になっているので非常に涼しい。 流、? の中に入り、フライをアップストリームでキャストするが、ヒットはなし。 ダウンストリームで浅い瀬を攻める。魚が顔をのぞかせたが合わせ損ない魚に逃げられた。ここらへんは、ヤマメ域なのだろう。餌釣りのほうには、ヤマメがヒットしている。この時期は、カディス系か、ホッパー系のフライの方が合っているようだ。この日は、結局釣果が上がらず夕刻になる、餌釣りで釣り上げたヤマメを持って野営地に戻る。河原で平たい石を拾い火に掛ける。ヤマメをさばき熱く焼けた石にのせて醤油をかける。ヤマメの石焼きをつまみにビールで乾杯。 日も暮れて、せせらぎを聞きながら星を眺めていると流れ星が1つ、2つと降ってくる。明日も良い天気だと思い眠りにつく。・・・第1日目 2.銀の魚(第2日目) 13日、朝7時頃起床、天候は見事な快晴。昨日の疲れのせいで朝まずめの時期をのがすが、朝食後夜露で濡れたテントを乾かす間、少し竿を振ってみる。 この辺りの川幅は、15m位で水深は、平均30〜40cm。ウェーダー(昨日の汗で中が湿っている)に足を入れて川の中心まで進み、下流の瀬にフライを流す。 その流心にフライが流れ着いた瞬間、渓魚が反応。フィシュ・オン!? に・・・逃げられてしまった。今日も先が思いやられる。 土内川から車を13号線に戻し、北へ向い344号線に入る。真室川町を通過し、大沢川に沿って上流へと遡る。344号線を離れ林道を高坂ダム堰堤の後ろへ進む大沢川の源流を目指す。しかし、林道に入るや関東ナンバーのRV車に煽られる始末、この山にも東京星人の魔の手が伸びていた。”熊でる、危険”の立て札を横目に林道を奥へ奥へと進むが、悪路のためそれ以上の遡上は、不可能だと判断し車を止めて野営出来る場所を探し林道を後退する。数キロ戻ると広く平坦な場所を発見したので車を路肩に寄せて、いざ釣行の準備にはいる。 林道を数分上り、入渓する。本流の水温は、かなり高い16・7゚Cは、あるだろう。本流では、ハヤばかりがつれるが本命のイワナは、未だに顔も見せない。腰まで水につかりながら、遡上を続けるとそこに小さな、しかし、勢いのある沢があった。餌により落ち込みや岩の瀬を探ってみる。フィシュオン!!25cmぐらいのイワナである。すれていない野生の渓魚は、教科書通りの場所に潜み餌の流れてくるのをひたすら待っている。 フライにて挑戦するが、なかなか食いついてこない。何度目かのトライの時、魚がフライにアタックしてきた・・・。 この場所は、さんざん荒らしてしまったので沢の奥へ入る事にした。20mも進むとそこには、落差5mほどの魚止めの滝があった。しかし、この場所では、フライロッドは、振れない。残念だが餌で滝壷の淵を探ってみる。案の定、イワナがヒットしてきた。そこそこの大きさだ。今日の釣果は、2匹なのでこれ以上の深追いはせず引き上げることにした。時刻もすでに5時を回っていた。釣行に出てからすでに4時間以上がたっていた。釣ったイワナを沢でさばく、イワナの胃袋からは、バッタが出てきた。ここらの魚は、腹がいっぱいでも餌に食いついてくるのだなと、野生のすごさに感心させられた。車に戻り野営の準備をする。しかし、この時間になってもまだ、山を登ってくる車がある。 今日は、イワナを煮付けにして食した。この山の夜は、暑かった。川の水温が高いのもうなずける。 山は、霧に包まれて今夜は星も見えない。・・・第2日目 3.金の魚(第3日目) 14日、朝からの暑い日差しに身も心も疲れはて今日は、街道沿いの温泉に2日分の汗を流しに行くことにした。8時に高坂ダム湖を後にして344号線から13号線に入る。湯沢町という温泉地に向かい国道を北上する。山形県から秋田県に入る。湯沢町の”だるま温泉”に到着、たっぷりとお湯を使い汗を流す。風呂上がりの汗が引くのを待って、湯沢の町へ戻り氷と明日の朝食の食材を手に入れてる。 今日の目的地は、秋田県と山形県にまたがる鳥海山、その一角であるテ?(ひのと)岳である。13号線に戻り、十数キロ南下して国道108号線に入る。しかし、この道は工事中の為、通行止めであった。仕方がないのでまた、湯沢町まで戻り県道湯沢ー鳥海線にて大きく迂回する事にした。 丁岳の麓に着いたのは、午後の3時を回っていた。林道を登って行くと町営のオートキャンプ場があり、何組かのファミリーがキャンプを楽しんでいた。このキャンプ場は、予約不要で無料、しかも水場やトイレが整っている。近くには、温泉もあり環境は、ばつぐんだ。 キャンプ場を過ぎてさらに林道を進むと工事の為、それ以上の前進は出来なかった。車を降りて沢に降りようと思ったが、アブの大群の猛攻に退却を余儀なしと、判断しキャンプ場に戻った。野営の準備をして、夕まずめの時を待った。キャンプ場前の沢に入り、キャストを繰り返すが渓魚の反応は、無い。この辺の魚は、ライズをしないのだ。上流の落ち込みまで一気に遡上し、餌で棚を探る。すかさず、渓魚が反応した。25cmオーバーのイワナである。しかし、この一匹をもって今回の釣行も最後となった。このイワナは、川にリリースした。 テントサイトに戻り、夕食の準備をしながら地元の人と言葉を交わす、この辺では、バッタを餌に釣りをするという。やはり、ドライフライでは、渓魚を騙すことは出来ないのだろうか。反省と共に次回からの釣行の目標も出来た。 明日は、東京へ向けて600Kmの距離を走ることになる。朝が早いので今夜は、早々に床に入る。 4.日本海!秋田・山形・宮城・福島・栃木・埼玉・東京(最終日) 15日、5時に起床。空は、どんよりと曇っている。朝食を軽く取り、テントを撤収する。今日は、一気に東京まで戻る。途中渋滞が予想されるので、なるべく早い時間から行動を開始した。6時にキャンプ場を離れ、県道のスタンドで給油を行う。名峰鳥海山に近ずくが、生憎の曇り空。車は、ワインディングロードをひたすら走る。この山の一つ一つの沢に渓魚がいることだろう。この自然を大事にしたいと思いながら鳥海山を登る。鳥海山ブルーラインを使って県境に向かう。 眼下に日本海、そこに広がる雄鹿半島を望みながら、山形県に入る。7号線にて遊佐・酒田と抜け、鶴岡より分岐する112号線に入る。出羽三山の間を走り。山形自動車道・寒河江ICを目指す。 東北自動車道の途中、何カ所かの渋滞区間があったが午後7時過ぎには、何とか蓮田SAに到着した。ガソリンタンクには、3リッター程のガソリンしか残っていなかった。秋田からここまで600Km以上、無給油でよく走ったものだ。 この夏の釣行は、無事に終わった。いつかまた、あの川に行ってみたい。その時まであの自然が残っていてほしいものだ。 おわり >Topに戻る |
>Topに戻る 人の記憶というのは、あやふやな物で昨晩食べたものすら忘れてしまう物である。しかし、決して忘れ得ない出来事や思い出も長い人生の間には多々ある。過酷な状況での記憶ほど深く刻まれる物はない。それは、今より日本の景気も悪くなく、人々は挙って行楽に出掛ける幸せな時代に起こったある出来事である。 9月のとある土曜の晴れた朝、5台のオートバイと2台の乗用車がサンシャイン60の前に集合した。男女含めて、8人の集団にて初秋の富山県に一泊二日の旅行に出掛ける所だ。私は、一人で車に乗り先行するバイク群を追い掛けた。新宿入口より首都高に乗り、中央高速に向かった。しかし、首都高は行楽地に向かう車で大変な混み様であった。バイク群は車の間を縫い、次第に離れていった。私の運転する車が東京郊外の八王子市に差し掛かったのは、昼も近い11時だった。出発してから早4時間が過ぎていた。バイク群は遥かに先行し追いつく事は不可能だと判断し、八王子インターで高速を降りて国道20号・甲州街道を山梨に向かった。大垂水峠を越え、神奈川県に入った。道は、混んでいるが高速よりは速度が出ていた。午後2時には、何とか大月まで辿りついた。大月インターから再び中央高速に乗り、目的地を目指した。高速道路は、文字通り高速で走行できた。しかし、ここに来て重大な事に気が付いた。 この車には、地図が無かったのだ。同行の車とも離れ離れになっておりバイク達は行方しれず。不安な気持ちを抑え、ひたすら高速を走った。甲府を過ぎ、途中のサービスエリアで高速エリア地図を入手したが目的地は、欄外だった。とりあえず、岐阜県高山市に目的地を定めた。高山は、昔の仕事で数回、訪問したことがあり、多少の道を知っていた。車は順調に走り、松本インターで国道158号に乗り換えた。安曇、白骨温泉、上高地と言う名だたる観光・景勝地を横目に安房峠に差し掛かった。長野県と岐阜県の県境にある安房峠は、狭く九十九折りの道である。現在は、山を貫くトンネルが開通しているのでかなり時間が短縮された模様である。峠を慎重に越えると乗鞍、平温泉と言う観光地があるが残念ながら通過である。山を下りやっと高山に着いた時は、陽は山に陰り、辺りは薄暗くなっていた。高速で入手した心許ない地図を広げ、今後のルートを検討した。地図には2本の国道が記されており、一方は、大きく迂回している白川街道。一方は、途中に県道があるが多少距離が短い、国道360号だ。地図は平面である為、こんな時の心理状態では、見た目に楽そうな道を選ぶのが人の常で ある。しかし、この決断が辛い記憶として今に残ることになるとは思いもよらないものである。飛騨高山の小京都を見聞することもなく、車は国道41号を北上した。古川町を過ぎた頃、国道41号は右に折れた。私の運転する車は、国道を離れて県道に侵入した。前を行く車も対向車も無く、道には外灯など無い暗い山道だ。国道360号は、更に険しく長い辛い道のりだった。いつ終わるとも知れない曲がりくねった道を上り続け、峠を越えた頃には、夜7時を廻っていた。峠を少し下ると道路案内標識があった。目的の場所まで後20数キロメートルを残すばかりだった。険しかった国道360号から道幅も広い国道156号・白川街道に入った時は心底安堵した。岐阜県と富山県を繋ぐ、飛騨合掌ラインは山深い道であるが観光開発のお陰で道は広く、綺麗だ。車は快調に走り五箇山の平村に到着したのは、午後8時になる少し前だった。村の入り口に観光客用の駐車場があり、そこに車を止めて予約してある民宿に夜道を歩いた。平村には合掌造りの家屋が昔のまま残っており、そこに泊り一時の田舎気分を味わうのである。現在では、世界遺産にも認定され世界中から注目される日本の文化財である。 今日宿泊する民宿を探すが、見つからないまま村の外れまで来てしまった。仕方がないので入り口に戻り村内の案内図で再度確認をして宿を探す。30分ほど徘徊してやっと今日の宿を発見した。先に着いていたのは、もう一台の車の友人達だった。バイク組は、まだ到着していなかった。合掌造りの家屋の中は、大きくて広かった。この手の家屋は平均的に4階建てらしい、冬は雪深く家の中での生活が長く続く。今の時代は、家族も少なく部屋が余っているそうだ。囲炉裏の端で遅い夕食を頂いた。山菜と川魚の郷土料理である。この家によく似合う顔の老婆が味噌汁をついでくれる。長旅で疲れた身体に染み渡る。食後、風呂に浸かりまだ来ぬバイクの友人達を思った。その頃、バイクの一団は国道360号の暗い山道を登っていた。人は同じ過ちを犯すものである。 バイクのグループは、中央高速を名古屋方面に走った。長野県・飯田市の飯田インターで高速を離れ、国道256号にて木曽福島町を経由し、高山に至った。後の行程は、私の車と同じルートである。よって、高山からは過酷な道のりとなった。バイクの一団が白川街道に入ったのは、午後11時を過ぎていた。さらにバイクは、燃料タンクが小さいのでガス欠の危険がある者もいた。山間の国道にはガソリンスタンドも無く、やむなくバイクを置いてタンデムで宿までたどり着いた。身も心も疲れ切ったライダー達は、早々に就寝した。翌朝は、8時に起きた。朝食をとった後、平村の中を散策した。昨晩は、暗がりで判らなかった合掌造りの巨大な家屋を見学した。それぞれの家には長い歴史があり、今もその子孫が暮らしている。村の中は、観光客達で賑やかだ。一時の田舎暮らしを満喫し、都会に戻っていく。我々も僅かな時間を過ごした後、東京への帰路についた。バイクのグループは、高山から安房峠を経て東京に戻ることになった。私は、同じ道を通るのはつまらないので日本海側の北陸道を使うことにした。礪波インターから北陸道に乗り、日本海を左に見ながら富山、黒部、朝日を通過、新 潟県に入った。親不知は険しい断崖に道路を作った難所だ。少しいくと日本構造線の郷と書いた標識が目に入った。フォッサマグナの上を通過し、糸魚川を越えた。上越インターで高速を降りた。国道18号・北国街道を南下して長野方面へ向かった。途中、小布施から千曲川を渡り菅平を越えて小諸市・佐久市に至った。現在、上信越道が開通しており、この道は大夫楽になっている。佐久から国道254号を使って埼玉県を目指した。国道は、長々と渋滞していた。下仁田蒟蒻の郷をゆるゆると通過して、藤岡市を抜けて埼玉に突入。五箇山・平村を出て12時間が過ぎていた。1都8県・走行距離1,000キロメートルに及ぶ1泊2日の過酷な長旅も午後10時、車を駐車場に止めて終了した。バイクの友人達は、それより少し早く家に着いていた様だ。 Fin >Topに戻る |
>Topに戻る 1.此の道は、何時か来た道 二条のヘッドライトの光が黒いアスファルトの道を照らしだす。道は、緩やかに右へカーブし、暗い闇に消えていく。エンジンの微かな唸りだけが狭い運転席に響く。8月の休みに友人と連れ立ち、北陸・能登を目指し車は、上信越道を駆けて長野から新潟へ至った。妙高高原ICを過ぎると有料の道は途絶え、国道18号線に降ろされた。古来より北国街道と呼ばれる此の道は、多くの人々や物が行き交う交通の要である。道は、日本海側の大都市、上越市に続いている。過去に一度、私は此の道を通った事があった。その時は、何気なく通り過ぎただけだった。 2.能登半島 今、時刻は深夜2時。友人と運転を交代し、上越ICから北陸自動車道に車を乗せた。新潟県から富山県の県境に掛けては、海岸線まで張り出した山々が道を塞ぐ、その山をくり貫き幾本ものトンネルが通っている。難所の親不知では、道は崖に沿って海の上を走っている。対面通行の2車線道路が長々と続いた後、海岸線から離れ、内陸に向いた。富山ICを過ぎた頃、左手方向に立山連山の稜線の陰が薄明かりの空に見え始めた。田園風景の中を快調に進み、富山県を抜けて石川県に入った。金沢東ICで北陸道を降り、ガソリンを補給した。軽い朝食を取り、能登半島縦断に向かう。 能登有料道路は、海岸線に沿って走る。窓を開け、早朝の風を浴びながら景色を楽しむ。長く続いた海沿いの道を離れ、しばらく切り土の間を走り能登有料道路の終点、穴水町に着いた。そこから県道を使い更に深い山間部を抜けて、輪島に至った。 輪島の町に着いたのは、午前8時前、町は朝市に行き交う人や車で渋滞していた。喧騒を抜け港の外れに車を止め、しばしの休息を取る事にした。日本海から吹く、穏やかな風が頬を撫でる。 3.能登路の果て 輪島の町並みは古い。その古さには心地良い懐かしさがある。板張りの家屋は、長年の風雪に耐え人々の生活を守ってきた。マッチ箱の様な家々は、素朴な港町によく似合う。輪島から海岸線に沿って走る国道249号線は、能登半島国定公園の中を走り、北へ向かう。途中、時国家と書いた案内板がある。時国家とは、いにしえの生活様式を現在でも続けている奇特な一族である。米は釜戸で炊く、もちろんガスなどでは無く薪で炊く。農業や漁業を生業としており、此の地でこれからも生活を長らえてゆくのであろう。 能登には今も揚げ浜式塩田が残っている。これもいにしえより受け継がれる生業である。此処にしか残っていないかも知れない。 国道は、右に折れ海岸線と別れた。我々の車は、海沿いの県道に入った。道は、細く車一台通るのがやっとだった。能登半島最北端の辺境の地に狼煙と言う至極小さな港がある。そこから少し離れた小山の山頂に村営のキャンプ場がある。今日は、このキャンプ場で一夜を過ごす。キャンプ場の付近、10Km圏内に酒屋は無く、今日の晩酌は不可能となった。寂しい夕食を済ませてから夜釣りに出掛けた。暗い夜道を下って港に行くと、漁師の人がいぶかしげにこちらを見ている。岸壁から糸を垂らし待つが当たりはいっこうに無い。2時間ほど場所を転々と変えて見たが雑魚一匹掛からなかった。 寂しくテントに戻って寝袋にもぐった。長旅の疲れで朝まで1度も目が覚めなかった。我々のテントの横にいたライダーのバイクのエンジン音で目が覚めた。軽く食事を済ませ、半島の残り半分の道を進む。能登鉄道の終点、蛸島駅から線路に沿って国道を南下する。途中、めぼしい港の岸壁で糸を垂らすが相変わらず当たりは無い。この辺の海には魚が居ないのかとさえ思える。 能登には古くから伝わる伝統的な漁法にボラボラ漁と言うのがある。海岸から少し海に入った所に水面から3〜4m程のやぐらが建っているやぐらの上に海を見張る者が居て、四六時中、海を眺めている。ボラの群が見えたら岡の仲間に合図して、入り江に追い込むと言う何とも魚任せな漁法である。魚が来なければ一日中、やぐらから降りることは無く、岡に居る者も寝ているだけだ。長閑過ぎてあきれる程の習慣である。 能登の有名な景勝地に軍艦島と言うのがある。長い歳月を掛けて風化・浸食が繰り返され船の様な形になった島である。自然が作った芸術と言ったところだろうか、今ではこれ以上、波に浸食されない様に水面付近はテトラポットで覆われいる。軍艦島を眺めながら遅い昼食代わりにビールを飲む、ほろ酔い加減で昼寝をする。一時間程の休憩を終えて車を和倉温泉に向けた。能登島を望む和倉温泉郷は、能登半島一の観光地である。行き交う車も他府県ナンバーが多い、海を渡り能登島に繋がる橋はこれ自体が観光名物であった。少し前まで橋は、有料だったが現在では無料になっている。能登島の中でも糸を垂らす、人の居ない半島の果てとは違い、ここはには釣り人が多く岸壁の上は混雑していた。やはり、ここでもボーズだった。 今夜は、温泉に浸かり郷土料理を楽しむ事とした。和倉温泉街の外れの小さなホテルで草鞋を脱ぎ。早々に風呂に行く、風呂場はまだ新しく綺麗だ。 効能は神経痛等に効くのかな?泉質は弱アルカリ性かな? 風呂上がりに飲むビールは最高である。食事も旨い、やはりキャンプよりは楽である。2日間の疲れを癒し明日に備える。明日は黒部の山河に行き川釣りである。 4.台風と共に去りぬ 激しく窓を叩く雨音で目が覚めた。外は暴風雨である。荷物を車に積む間にも横殴りの雨が容赦なく襲いかかり全身ずぶ濡れ。今日の予定は、状況を見ながら決めようと目的地を定めず和倉を後にした。雨は益々激しさを増し、七尾市内は冠水の為、あちらこちらで通行止めになっていた。渋滞する車の列に混ざって市内を抜けると海沿いの国道にでた。さすがにボラボラ漁は休みであった。雨足は衰えることなく降り続き、七尾から氷見まで休まず走り、JR氷見線の雨晴駅の海水浴場で車を止めて釣りをする事にした。防波堤の中に逃げ込んだ魚を狙うがそんなに都合良く釣れるものではない。防波堤の上は高波を被りとても危険であった。早々に切り上げて雨の降っていない場所に移動することに決定した。富山県内全域に大雨洪水波浪警報が発令されていた。当然、黒部へ行く道など通れるはずもなかった。とりあえず長野に向けて車を北陸道に乗せた。糸魚川ICで日本海に注ぐ姫川に沿って道を登った。姫川と言う優しい名前とは裏腹の濁流は恐ろしい川相をしていた。日本構造線の郷と言う看板にふさわしく高さ数百メートルにおよぶ断崖は、大地のエネルギーの激しさを目の当たりにさせてくれ た。道は長野冬季オリンピックのお陰で綺麗に整備されており険しくなる山々とは対照的に非常に走りやすい。峠を越えると分水嶺を過ぎる。ここから川は太平洋に流れ出す。白馬の駅を過ぎると断続的な渋滞があった。信濃大町、安曇野、穂高を通り過ぎ、豊科ICから長野自動車道に乗った。中央道・諏訪湖SAの温泉で汗を流し残りの道のりに備えてた。和倉温泉を出てから12時間が過ぎようとしていた。今回の旅は生憎の天候の為、2泊3日と言う短い旅行になってしまった。次回、機会があれば日本構造線の郷をもっと探求して見たいものだ。関東地方は晴れていた。 同じ日本国内でも時間の流れというものは、こんなにも違う。能登時間とも言うべき時間があった。時国家の人々はその時間に沿って生活をしている。東京時間とは、関係なく時の過ぎゆくままに生きているのだ。 東京が滅んでも能登のこの地区だけはいつまでも残る様な気がする。 Fin >Topに戻る |
>Topに戻る 1)広瀬川流れる街に 東北一の大都市、宮城県仙台市。この街の道は青葉城に向かい長く緩やかな坂道が続く。現在、城の天守閣は存在しない。石垣が山肌に残っているだけだ。城跡に登ると市内を一望する高台に騎乗姿の伊達政宗像が勇壮な表情で天を見つめている。眼下の街を流れる広瀬川は午後の陽の光を川面に受け白く輝いていた。 宮城県は後方に蔵王国定公園や栗駒国定公園控え、多くの雪解け水が県内の平野を潤す。江戸の昔から国内有数の米の産地として栄えてきた。ササニシキは旨い米だ。 2)永遠(とわ)の松島 仙台から石巻線に乗り20分程走り、短いトンネルを幾つか過ぎると波面に小島が見える。青い海に緑の松を乗せた大小の島が無数に浮かぶ。松尾芭蕉の俳句の通り、言葉に成らぬ景色だ。天気も良く、まさに絶景日和であった。此処に来ると誰でも俳人になってしまうだろう。焼き立ての笹蒲鉾をつまみに生ビールをいただく、美しい景色は食べ物の味をも美味しく換える。しかし、今この風景も大気汚染や海洋汚染の影響で名物の松が枯れ始めているそうだ。この景色が無くなってしまうのは悲しい。いつまでも残していきたいものだ。 3)瑞巌寺 松島の海岸から陸に向かうと瑞巌寺と言う古びた寺がある。質素な山門を潜り抜け、石畳の道を進むと本堂に達する。本堂を見学する為には、幾らばかりかの金銭を必要とする。本堂には江戸期より残る貴重な文化財が多数保存されており、一見価値はある。一頻り境内の見学を終えて石畳の道を海岸に向かって戻る。国道に出ると喧騒の中を松島海岸駅に向かい歩いた。 END >Topに戻る |
>Topに戻る 1平和の街・広島 私の田舎は岡山にある。広島県の中心都、広島市までは160Km。しかし、この年になるまでこの街を訪れた事はなかった。 東京から西へ900Km、東海道・山陽新幹線「のぞみ」で4時間足らず、空路なら2時間余りで広島駅に着く。駅前からは市営の路面電車が発着している。この市電に乗れば市内のあらゆる所に行くことが出来る。広島の市電には戦後から残る懐かしい車両や最新型の小洒落た車両がある。さらに国内外各地から払い下げられた珍しい車両もある。市電は引っ切り無しに街中へ走りだす。市電に乗りゆっくり市内を走ると、十数分で平和記念公園に着く。 1945年8月6日、広島は原子爆弾の洗礼を受けた。その傷跡を今に残す原爆ドームを恥ずかしながら初めて目の当たりにした。その痛々しい姿に胸が締め付けられる想いがした。この光景を観光名所として笑って見ることは出来ない。世界の遺産としては、とても辛い遺産だ。過去の広島の街は平和への礎となった。街には緑豊かな中国山脈から幾本の川が注ぐ、多くの川に囲まれた水の都が広島市である。 2宮島・厳島神社 広島駅から市電に乗って海に近い西広島駅に着いた。広島市の西の外れ、市電の終点だ。ここから市電は私鉄・広島電鉄の線路に乗り入れをする。もう、路面電車ではない。古びた車両は軽快に軌道を駆け、心地よい揺れは眠りを誘う。広島の駅を出て約1時間、広電宮島駅に到着、人影も疎らな船着き場は静かだった。此処から小さなフェリーで宮島へ渡る。およそ15分の短い船旅である。島に近づくと厳島神社の顔、真紅の大鳥居が見えてきた。島に上陸すると多くの土産物屋と鹿の大群が迎えてくれた。この日は平日、更に生憎の小雨だったこともあり観光客は少なく、飢えた鹿が数匹、私にまとわりついて離れない。鹿を引き連れて参道を歩く。厳島神社を知る者は、必ず海面にせり出した能舞台を想い浮かべる事だろう。または、海に建つ大鳥居だろうか、どちらも壮観な眺めである。数年前、広島県を台風が直撃した。この時、能舞台の一部が壊れてしまったが、今日では完全に修復されていた。此処から有料区域になるので鹿達とはお別れである。広い境内には多くの文化財があり、いくら眺めていても飽きないが1時間程で帰路に着いた。対岸に戻るため船着き場に行くと、すでに数人の観 光客が船を待っていた。船が着くまで15分程あった。ビールを飲みながらのんびり待つこととした。つまみにジャコ天をかじり、小雨に煙る広島の街を眺めた。 3安芸の霊所・三瀧寺 JR可部線は安芸の山奥に向かうローカル線である。二両編成のディーゼルカーは古びた単線の軌道をゴト、ゴトと進み、太田川の長い鉄橋を渡る。迫り来る山を避ける様に右に大きくカーブし、短いトンネルを抜けると三滝駅に着く。市内の喧騒が嘘の様な静かな三滝は坂の町である。門前町の程良い雰囲気がある。長い坂を清流に沿って上ると精進料理の店が軒を並べて居た。麓とは趣がまるで違う。山門を抜けるとそこは室町時代の様であった。空海だか新羅だかの有名な坊さんが奉られているそうだ。本堂や釈迦堂は切り立った岩肌に埋め込まれる様な形で建てられている。本堂の床下から滝が落ちており。三滝と言う名前の由来である3つの滝があった。歴史的な三瀧寺を十二分に散策し身も心も清め下山した。参拝の後は旨い蕎麦を食し、腹も満たす。三瀧寺から流れ落ちる清流はホタル等の希少な生き物を育んでいる。広島で住むなら此処が一番だと思う。 4広島焼き 広島名物は色々あるが二大名物と言えば、牡蛎とお好み焼きと誰もが言うだろう。私が広島を訪れた時期は残念ながら牡蛎のシーズンではなかった為、これを食する機会はついに無かった。もう一方の名物、お好み焼きは大阪のそれとはかなり違う。薄い衣に山盛りのキャベツ、焼きソバを乗せて半熟の目玉焼きで綴じる。仕上げにオタフクソースをたっぷり塗ると広島風お好み焼き、広島焼きの出来上がりだ。香るソースが食欲を誘う。 広島の市内には呆れる程の店がある。何故、広島にこの様な食文化が根付いたかは私の浅智恵では計り知ることは出来ない。多分、戦後の一時期の食料不足を補う為、多くの模索の中から発達していったものではないかと考える。今日では日本全国でその味を楽しむ事が出来る。 広島にはまだまだ沢山の魅力がある。次に訪れる時が楽しみである。最後に広島駅で銘菓、紅葉饅頭を買い。東京への帰路に着いた。 end >Topに戻る |
>Topに戻る 1.木曽路 旧中山道と書いて、”いちにちじゅう、やまみち”と読んだアナウンサーが居たことは有名な話である。中仙道は江戸時代の五街道の一つで木曽街道とも呼ばれる。江戸・日本橋から信濃路、美濃路を通って京都に至る交通の要の街道であった。 「木曽路はすべて山の中である」 島崎 藤村の小説”夜明け前”の冒頭の一切にあるとおり、”木曽路”すなわち、中仙道のほとんどが山野渓谷を通る。藤村の実感のこもったこの一切が路の険しさを想像させる。 美濃(岐阜)と信濃(長野)の国境、西よりの木曽路最初の宿場町が”馬籠の宿”であった。旧街道の急な坂道には復元された宿場町の姿が続く、そんな茶屋の店先からは五平餅を焼く香ばしい香りが路地にけぶる。 次の宿場町”妻籠の宿”へは馬籠峠を越え、杉木立の路を川に沿って歩くこと約二里強(9キロ)、旧中山道の風情を体感出来る貴重な路を通り過ぎると、谷間の妻籠宿に至る。江戸時代の雰囲気を残す家並みが路地の両側に続く、この家並みは住民が便利さを犠牲にして保存して居ることを忘れてはいけない。山と谷と人が一つの芸術作品として妻籠を作っている。この町の情緒は多くの人々の長い間の努力の結果であり、数少ない成功例であろう。 馬籠や妻籠へ行くなら旧中仙道を歩く事を進める。握り飯二個と香香を少々、水筒にお茶を入れてのんびりと歩く、途中には年期のいった道祖神やお地蔵さんが道中を賑やかしてくれるはずである。3時間程で次の宿場に着くので気楽に歩くことが出来る。 妻籠の夕刻は行燈のほのかな明かりに照らされて一時、剣劇時代の旅情を味わえる。 夏の夕暮れ時には夕立が多い。運悪く雨に降られた時は土産物屋で番傘を買って雨の中を歩くのも一興だろう。 2.信濃路 平成九(1997)年十月、鉄道としての信濃路は使命を終えた。高崎から妙義山の鋭い峰を横目に走り、碓氷峠の長く急な登り坂のトンネルを潜り、軽井沢・小諸を経て長野に続いていた信越本線は碓氷峠の麓、横川駅で前途を失った。 長野新幹線の開通である。信越本線の碓氷峠越えの長い歴史はここに幕を閉じた。後に残ったのは使われなくなったトンネルと信越本線と云う名ばかりの名称だけだ。しかし、峠の釜飯が健在なのは幸いな事である。 信濃路は千曲川に沿って北へ向かう。江戸期の頃なら日本橋から自脚で十日以上は歩かなければならなかっただろうが、今日では車で3、4時間程走れば山谷を越え、信州・長野に至る。川中島の古戦場跡を過ぎると長い橋を渡る。千曲川の流れに犀川の流れが合流する所に長野の中心地がある。 市街に入ると緩やかな坂路が続く、坂路は次第に角度を増してゆき古錆びた店構えの商店街の間を抜ける。 石段が路を塞ぐ、人々は石段を目指し長く続く坂路を登ってやってくる。しかし、牛に引かれてやって来る者は一人もいな。 3.善光寺詣り 善光寺の創建は1000年以上の昔に遡る。諺にある「牛に引かれて、善光寺詣り」と云うのは、決して牛車に乗って遥々遠方よりお詣りに来ると云う訳ではなく、知らない内にそこに来てしまったと、云う事らしい。かく云う私も善光寺が長野のこんな繁華街の近くにあるとは知らず。思わずお詣りをしてしまったのである。 十数段の石段を登ると仁王門があり、門の左右から「あ」「ん」の仁王が睨みを利かせている。仁王門をくぐり抜けると仲見世通りを山門まで歩く。山門や本堂は実に見事な建造物であるが更に歴史と云う長い時間が風格と云う価値を加えるている。本堂でお詣りをしていると荘厳な鐘の音が響き渡る。長野オリンピックの開会式を飾り、世界に響いた鐘である。 4.戸隠神社 九十九折りの急な坂を慎重な運転で登る、カーブを一つ曲がる毎に徐々に標高が上がる。長野市内は遥か眼下に消え、飯縄山に向かい戸隠バードラインを更に登る。下界は夏真っ盛りだが飯綱高原は夏でも涼しく、秋の様な気候だ。 戸隠連峰の尖った山並みに向かい、緩やかなアップダウンの続く道を走り戸隠の霊所、戸隠神社に着く。標高二千メートルの戸隠連峰を背負い豊かな木々に囲まれた戸隠神社は長い参道の更に奥の奥に位置する。夏でも陽の光が殆ど届かない杉並木の参道は寒いくらいだ。更に奥社の裏にから石段を登る。夏の陽射しが戻り長い参道の後は長い石段が上方へ続く、次の社殿は岩山の中腹にあり、そこから後方を望むと戸隠高原や飯縄山が一望出来る。 戸隠高原は湧水が多く、その湧水により数多くの植物が生い茂っている。散策道を歩き続けると神社下の休み処に出る。名物の戸隠そばを軽く食し、戸隠忍者屋敷で腹ごなしをして戸隠高原に別れを告げ、ワインディングロードを下り信濃町・黒姫に抜けた。 帰路は北国街道を南に進み、菅平を越え上田・小諸を経由し、佐久から信州街道を通り、下仁田・藤岡に至る道を走り東京へ向かった。東京は暑く、信濃の高原の涼しさが懐かしく、恋しかった。 Fin >Topに戻る |